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ついにそのベールを脱いだ、ウマ娘界の「アネゴ」ことステイゴールド。
オルフェーヴルやゴールドシップの父であり、まさに「黄金一族」の頂点に立つ偉大な彼女、その元ネタとなった競走馬は、日本競馬史に残る愛されキャラであり、奇跡のような馬生を送った名馬でした。
この記事では、そんなステイゴールドがどんな競走馬であったかについて、ウマ娘から競馬を始めた初心者に向けてわかりやすくご紹介します。
ぜひ最後までごらんください。
競走馬『ステイゴールド』とは
https://umamusume.jp/character/staygold
競走馬『ステイゴールド』は1994年3月24日生まれの黒鹿毛の牡馬、1997年にクラシックを迎えた97世代と呼ばれる競走馬です。
名前の由来はティービー・ワンダーの名曲、『Stay Gold(ステイ・ゴールド)』から。
「輝き続ける」「いつまでも純真なままで」といった意味が込められていますが、その競走生活からHi-STANDARDの同名曲(パンク・ロック)の方を連想するファンも多いです。
父はあの気性が荒いことで有名な大種牡馬サンデーサイレンス、母も種付け時に種牡馬に噛み付くほど凶暴だったゴールデンサッシュ(サッカーボーイの全妹)、母父はディクタスという、当時の社台グループの結晶とも言える超良血馬。
しかし父サンデーサイレンス、母父ディクタスという血統は競馬ファンなら聞いただけで「気性がヤバそう」と思う組み合わせであり、いわば「気性難のエリート」とも言える血統でした。
その予想通り、ステイゴールドは「猛獣」「狂犬」と呼ばれるほどの激しい気性の持ち主であり、そして非常に賢い馬でしたが、その賢さが「いかに人間を困らせるか」「いかにサボるか」に向けられるタイプだったのです。
- 肉食疑惑: 「肉を与えたら食べるんじゃないか?」と調教助手に言われるほどの荒くれ者。
- ボス馬気質: 牧場では小柄な体に反してボス馬で、鹿が侵入してきた際には他の馬が逃げ惑う中、一頭だけ逆に鹿を追い回していた。
- 賢さの証明: 熊沢騎手は「猛獣ではなく、OKとNGがハッキリしている馬。理解すれば楽」と語っており、人間の意図を理解した上で「やりたくないことは頑としてやらない」という強い自我を持っていました。
- スペシャルウィークに噛みつく: 1998年のジャパンカップ、レース中に並走していたスペシャルウィークに噛みつきにいくという暴挙に出てる。
- お茶漬け食い: 飼い葉を水に浸して柔らかくしてから少し食べ、その水を飲むという独特の食べ方(通称お茶漬け)。この食べ方は、息子のゴールドシップやオルフェーヴルにも遺伝(?)している。
- ドバイでの偽装工作: 海外遠征で体調を崩し食欲が落ちた際、寝床に飼い葉を隠したり、他の馬に食べさせたりして、ちゃんと食べているフリをして健康をアピールしていた。
そんなステイゴールドを一言で言うなら「愛すべき善戦マン」であり、最後に「伝説を作った馬」です。
非常に頑健で、同期や下の世代が引退していく中、7歳(旧8歳)まで一線級で走り続け、その通算成績は50戦にも及びました。
ウマ娘でのステイゴールドはミステリアスで飄々とした態度を貫き通していますが、これは実馬が過密スケジュールで様々な競馬場を走り回った史実を基に、旅している神出鬼没なキャラクターとして反映されているようです。
史実で対戦のあるウマ娘
- メジロドーベル 3勝0敗
- キングヘイロー 3勝1敗
- マチカネフクキタル 3勝2敗
- メジロブライト 3勝7敗
- エアグルーヴ 2勝0敗
- エアシャカール 2勝0敗
- セイウンスカイ 2勝2敗
- ツルマルツヨシ 2勝2敗
- グラスワンダー 2勝3敗
- サイレンススズカ 1勝1敗
- スペシャルウィーク 1勝4敗
- ナリタトップロード 1勝5敗
- メイショウドトウ 1勝7敗
- モンジュー 0勝1敗
- アグネスデジタル 0勝1敗
- テイエムオペラオー 0勝11敗
同期のウマ娘
- マチカネフクキタル
- サイレンススズカ
- メジロブライト
- メジロドーベル
- タイキシャトル
血統繋がりのあるウマ娘
- ドリームジャーニー 2004年産仔
- ナカヤマフェスタ 2006年産仔
- オルフェーヴル 2008年産仔
- ゴールドシップ 2009年産仔
- フェノーメノ 2009年産仔
- ラッキーライラック 史実における孫。父オルフェーヴル
ステマ配合
- メジロマックイーン 配合の相方(嫁と姑?or婿と舅?)史実では同門の先輩、武豊騎乗経験あり
いざ黄金の旅路へ、ドラマのように駆け抜けた競争生活
https://x.com/uma_musu/status/1959498435150934024
50戦7勝。
この戦績だけ見れば平凡に見えますが、その7勝のうち2勝が海外G1(級)、そして最後の1勝が引退レースでのG1制覇という、ステイゴールドはまさにドラマのような競走馬でした。
「主な勝ち鞍:阿寒湖特別」の日々
1996年12月に阪神競馬場でデビューしたステイゴールド、結果は3着と勝利は収められず、12月21日の次走も右前脚の骨膜炎により16着、翌年2月15日の4歳未勝利戦に出場するも、騎手が落馬したため、調教再審査を通告されてしまいます。
その後2度の2着を経て、5月11日の未勝利戦でようやく初勝利を挙げました。
しかしその後の勝利には続かず、重賞やG1戦線で好走はするもあと一歩で勝てない。
2着12回、3着8回という成績が示す通り、「誰が勝とうと2着・3着はステイゴールド」と言われるほどでした。
約2年8ヶ月もの間、重賞勝利がないまま「主な勝ち鞍:阿寒湖特別(条件戦)」と新聞に書かれ続け、ネット上では「阿寒湖(アカン子)」という愛称(?)までつくほどだったのです。
- 調教再審査
調教が十分でない馬、健康に支障があると認められる馬に対して裁決委員が科す調教状況または馬体の審査のこと。
菊花賞トライアルの神戸新聞杯(GⅡ)に格上挑戦するも4着で優先出走権には手が届かなかったものの、抽選を潜り抜け菊花賞(GⅠ)へは出場しますが8着と惨敗。
その後も天皇賞(春)(GⅠ)、宝塚記念(GⅠ)、天皇賞(秋)(GⅠ)、ジャパンカップ(GⅠ)、有馬記念(GⅠ)とGⅠレースに出走しますが、2着まではいっても勝利は挙げることはできないまま、1997年~2000年5月まで未勝利のまま終わってしまいます。
悲願の重賞初制覇、そして世界へ
そんなステイゴールドに転機が訪れたのは、2000年目黒記念(GⅡ)。
以前に一度だけ騎乗経験のあった武豊騎手を背に、4歳以来実に2年8ヵ月、29戦ぶりとなる白星をついに手に入れます。
しかし、その後は世紀末覇王テイエムオペラオーの壁に阻まれてG1タイトルには届かず、これ以降2・3着に入ることはなくなってしまいました。
そして2001年、この年から世界に合わせる形で馬齢表記が改められ、7歳(現表記)となったステイゴールドは奇跡を起こします。
一般的な競走馬は衰えも隠せない年齢となっている中で、ステーゴールドはむしろこれまで以上の仕上がりを見せていました。
引退間近と思われる中で国内GⅡ日経新春杯を勝利した後、陣営はドバイ遠征を決定。
ただし、目的はドバイワールドカップに出走するトゥザヴィクトリーの「付き添い」、ステイゴールドは「おまけ」として、当時GⅡだったドバイシーマクラシックに出走します。
ステイゴールドは輸送による疲労ですっかり食欲が落ちてしまい、レース当日にはガリガリに痩せこけ、掲示板入りはおろか最後まで走れるかどうか誰の目にも絶不調でした。
この遠征中に痩せた真相は、食べきれない餌を寝床に隠したり、他の馬に食べさせるなどしてステイゴールドがちゃんと食べたふりをしていた事により、発見が遅れてしまったことによるものだったそうです。
しかしレース本番、最後の直線で驚異的な末脚を発揮すると前年の世界王者ファンタスティックライトをゴール前で差し切り、奇跡の勝利を挙げます。
ドバイシーマクラシックの勝利でステイゴールドにも種牡馬となる目途が付きますが、当時社台スタリオンではサンデーサイレンス系のGⅠ勝利馬が多数種牡馬入りし、故障により引退したアグネスタキオンも種牡馬に加わって既に十分な種牡馬を抱え込んでいたため、ステイゴールドは売却する方向で話が進んでいました。
ところがライスシャワーと同じ理由で評価は低く、価格交渉も不調に終わり、さらに繁殖シーズンにも間に合わなくなったため、ステイゴールドは現役続行となります。
しかしその後もレースも勝つことは出来ず、帰国後の宝塚記念(GⅠ)では4着となり、休養に入ることになりました。
そして10月7日の京都大賞典(GⅡ)、直線で左に斜行したためテイエムオペラオーと接触し、それに挟まれる形でナリタトップロード騎乗の渡辺薫彦騎手を落馬させてしまい、失格処分が下されてしまいます。
そして武豊を久々に鞍上に迎えての10月28日の天皇賞(秋)(GⅠ)でも斜行し7着、11月25日のジャパンカップ(GⅠ)は久しぶりに斜行せず走り4着となりますが、次走でステイゴールドは引退す事が決定しました。
黄金の旅路の終わり・香港ヴァーズ
引退レースとして選ばれたのは、暮れの12月16日香港のシャティン競馬場で行われる国際GⅠ香港ヴァーズ。
武豊が鞍上のステイゴールドは1番人気に推され、現地表記での馬名「黄金旅程(Golden Journey)」は、まるでこれまでの長い旅の終着点を表しているかのような馬名でした。
レースは最後の直線、残り300mでまだ先頭と5馬身以上の差があり、誰もが「今回も届かないのか」と思った瞬間、鞍上の武豊騎手が「背中に羽が生えたようだった」と語るほどの凄まじい末脚が炸裂します。
「さあステイゴールドが外から上がってきた!3番手から2番手!
その内にはダリアプール、ファウンデーションスピリットの態勢だ!
さあ一気にステイゴールドが2番手まで上がってきた!
残り300m、しかし前まではまだ5馬身ある!
先頭はエクラール,ドバイ!200を切った!
さあステイ頑張れ! ステイゴールド追ってくる! ステイゴールド追ってくる!
単独2番手から! 前まではまだ3馬身ある!
ステイゴールド! ステイゴールド追ってくる! ステイゴールド! 差し切れ!
ステイゴールド! ステイゴールド! エクラール!
ステイゴールド! ステイゴールド! ステイゴールド!
ステイゴールドォォォ! 差し切ったァァァ!
ラストランを見事に飾ったステイゴールドォ!
最終戦でG1獲ったかっ!?」
その追撃の凄まじさは、ラジオ日本の加藤アナウンサーがもはや実況ではなく応援をしてしまうほどであり、特に残り200mを切ってからはただひたすらにステイゴールドの名を連呼するだけとなり、ステイゴールドにどれだけ熱が入っていたかがわかるものでした。
引退レースで最初で最後のGⅠタイトル、そして『内国産・日本調教馬による史上初の海外G1制覇』という日本競馬界全体の悲願も達成したこの勝利を受け、ステイゴールドはJRA賞特別賞を受賞します。
そして翌2002年1月20日京都競馬場。
本来は行われる予定はありませんでしたが、ファンとJRAによる要請によって引退式が執り行われ、馬名の由来であるスティービー・ワンダーの「Stay Gold」をバックに、競走生活の終わりを迎えました。
競走成績 50戦7勝。2着が12回、3着が8回。
愛された名脇役は最後の最後に立派に主役を張り、ターフを去っていったのです。
引退後のステイゴールド

引退後のステイゴールドは種牡馬となり、2年おきに日高町のブリーダーズ・スタリオン・ステーションと新冠町のビッグレッドファームを往復するようになります。
馬体が小さく、晩成型で、スタミナ偏重の血統であったため、当初は期待されていませんでしたが「国際G1に勝ったサンデーサイレンス系が格安で種付けできるなら」と、意外な人気がありました。
しかし、ここでもステイゴールドは予想を裏切ります。
メジロマックイーンの娘との配合(通称:ステマ配合)が相性抜群であることが判明し、以下の名馬たちを次々と輩出しました。
- ドリームジャーニー:朝日杯、宝塚記念、有馬記念を制覇。
- オルフェーヴル:クラシック三冠馬。凱旋門賞2着。
- ゴールドシップ:G1・6勝の破天荒な芦毛の怪物。
- フェノーメノ:天皇賞(春)連覇。
- ナカヤマフェスタ:宝塚記念制覇、凱旋門賞2着。
- オジュウチョウサン:障害競走の絶対王者。
産駒たちは父譲りの「激しい気性」「爆発的なスタミナと勝負根性」「ここ一番での強さ」を受け継ぎ、「ステイゴールド系」と言えるほどの一大勢力を築き上げ日本競馬界を席巻します。
「自分はG1をなかなか勝てなかったのに子供たちはあっさり勝つ」
「自分は体が小さかったのに子供たちは巨漢(ゴルシなど)」
「でも気性の悪さだけは全員に遺伝した」
と、種牡馬としてもステイゴールドは話題に事欠きませんでした。
ところが種牡馬として大成功を収めていた最中の2015年2月5日、種付けを行った後に容態が急変し、大動脈破裂により21歳でステイゴールドはこの世を去ります。
まだまだ活躍が期待されていた中での突然の別れ、現役種牡馬としての早すぎる死でした。
しかし、その血は子供たち、そして孫たちへと確実に受け継がれています。
近年でも孫のウシュバテソーロがドバイワールドカップを制するなど、世界を舞台に強い「ステイゴールドの血」は、今も競馬界で輝きを放ち続けているのです。
ウマ娘として、育成ストーリーで語られるであろう「旅の続き」。
その先にあるものが一体何なのか?我々トレーナーも期待を胸に、ステイゴールドの黄金の旅路へと一歩踏み出していきましょう。



