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2024年5月に公開された劇場版『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』の登場から約1年5か月、多くのトレーナーの心を掴んで離さなかったウマ娘「ダンツフレーム」がついに実装です。
お人好しで常に周りを気遣う優しい彼女ですが、そのモチーフとなった競走馬は「最強世代」と呼ばれた強力なライバルたちを相手に、不屈の闘志で走り続けた名馬でした。
この記事はそんなダンツフレームの元ネタである競走馬の物語を、血統やエピソード、そして涙なくしては語れない引退後まで、ウマ娘から競馬を始めた初心者の方に向けて簡単に、詳しくご紹介します。

競走馬『ダンツフレーム』とは
https://umamusume.jp/character/dantsuflame
競走馬『ダンツフレーム』は1998年4月19日生まれの鹿毛の牡馬、2001年にクラシック期を迎えた01世代と呼ばれる競走馬です。
父のブライアンズタイムは、ナリタブライアンやマヤノトップガンなどを輩出した1990年代を代表する大種牡馬、ウマ娘の世界でも多くのキャラクターと血の繋がりがあります。
母方はやや地味な血統でしたが、母のインターピレネーは桜花賞への出走経験もある馬でした。
馬名の由来は馬主の冠名「ダンツ」に、「炎」を意味する「Flame」を組み合わせたもの。
その名の通り、内に秘めた熱い闘志を感じさせます。
ダンツフレームは決して、恵まれた評価を受けた馬ではありませんでした。
牧場関係者からは「見てくれのいい馬ではなかった」「イメージ的にはいわゆるサラブレッドというきれいな馬じゃなかった」と評されるほどで、その丸みを帯びた体つきから「牛」のようだと例えられたことも。
ウマ娘のイベントで牛に例えられることが多いのは、このエピソードが元になっているようです。
しかしその見た目とは裏腹に、レースでは世代トップクラスの実力を発揮していました。
特に同期は、アグネスタキオン・ジャングルポケット・マンハッタンカフェ・クロフネといった歴史的名馬が揃う「最強世代」。
この強力なライバルたちとクラシック戦線で常に上位争いを演じながらも、あと一歩でG1に届かないレースが続いたことから「善戦マン」「シルバーコレクター」とも呼ばれました。
しかしそのひたむきな走りは多くのファンを魅了した競走馬、それがダンツフレームです。
ウマ娘のダンツフレームは自分に自信がなく、天才的な同期たちにコンプレックスを抱きながらも、ひたむきに努力する健気な性格として描かれています。
史実のダンツフレームも特定の主戦騎手が定まらず、陣営の期待するローテーションが二転三転するなど、周囲に振り回されがちな競走生活を送りました。
しかし、どんな状況でも黙々と走り続け、大舞台で結果を残した姿は、まさにお人好しで努力家なウマ娘のイメージと重なります。
ちなみに、ウマ娘の劇場版で話題になった「ニンジンオッチャホイ」は史実ネタではありません。
『オッチャホイ』とはシンガポールの屋台料理「オチャホイ」を日本にも食べられるようにと考案された新潟県の郷土料理(麺料理)で、史実でのダンツフレームの最後の勝利が新潟大賞典だったという所しか接点が見られないという、名前のインパクトから「オッチャホイ≒ダンツフレーム」という意味の単語として定着してしまいました。
史実で対戦のあるウマ娘
- ナリタトップロード 0勝1敗
- エアシャカール 1勝1敗
- アグネスデジタル 1勝1敗
- タップダンスシチー 0勝1敗
- ジャングルポケット 1勝2敗
- アグネスタキオン 0勝1敗
- マンハッタンカフェ 0勝1敗
- ビリーヴ 1勝1敗
- シンボリクリスエス 0勝2敗
- ヒシミラクル 0勝2敗
- デュランダル 0勝1敗
- ネオユニヴァース 0勝1敗
同期のウマ娘
- ジャングルポケット
- アグネスタキオン
- マンハッタンカフェ
- ビリーヴ
- カルストンライトオ (対戦なし)
ブライアンズタイム産駒繋がりのウマ娘
- ナリタブライアン
- マヤノトップガン
- ノーリーズン
- タニノギムレット
- フリオーソ
栄光と挫折を繰り返した競走生活
https://x.com/uma_musu/status/1788811302183563671
【クラシックでの激闘と「善戦マン」時代】
前記とおり、見た目があまり優れず調教師や生産者からの評価はあまり良くはなかったダンツフレームですが、それでも2000年6月にデビュー。
3歳になった2001年のきさらぎ賞(GⅢ)で2着、そしてアーリントンカップ(GⅢ)で重賞初制覇を達成し、クラシック戦線へと駒を進めます。
当初はこの後、NHKマイルカップ(GⅠ)から安田記念(GⅠ)というローテの予定でしたが、予定を変更して出走したクラシック三冠路線の一冠目、皐月賞(GⅠ)ではアグネスタキオン、ジャングルポケットに続く3番人気でした。
が、タキオンとジャンポケがいずれも1桁オッズだったのに対し単勝16.8倍と少し落ちる評価を付けられてしまいます。
それでも不利を受けながら直線で出したアグネスタキオンを追いかけ、外から追い上げたジャングルポケットとの競り合いを制して半馬身差の2着と健闘しました。
続くGⅠ東京優駿(日本ダービー)ではジャングルポケット、NHKマイルカップを快勝したクロフネに次ぐ形でまたもや3番人気。
世代の頂点を決める大舞台で、最終直線を上がり最速で追い上げたジャングルポケットに1馬身半屈して2着となりました。
その後の菊花賞では、ジャングルポケットに次ぐ2番人気に支持されるもマンハッタンカフェの5着に敗れ、勝ちきれないレースが続きます。
【悲願のGⅠ制覇、そして…】
古馬になった2002年になっても勝ちきれないレースが続き、安田記念(GⅠ)でも2着となり、これでG1でのシルバーメダルは3つに。
しかし、その直後に出走した上半期のグランプリ、宝塚記念(GⅠ)でついにダンツフレームの才能が花開きます。
並み居る強豪を相手にゴール前の叩き合いをハナ差で制し、悲願のGⅠ初制覇を成し遂げました。
しかし残念ながら、これがダンツフレームにとって最初で最後のGⅠタイトルとなります。
誰もがここからの更なる飛躍を期待したその後のレース結果は、天皇賞(秋)14着、マイルチャンピオンシップ(GⅠ)17着と惨敗。
5歳となった2003年では天皇賞(春)(GⅠ)5着、安田記念(GⅠ)5着、連覇を懸けた宝塚記念(GⅠ)でヒシミラクルの7着となり、夏の休養を経てオールカマー(GⅡ)で復帰予定だったものの右前脚浅屈腱炎を発症して一度目の引退となりました。
【度重なる苦難と現役復帰】
引退後は2004年より種牡馬入りの予定でしたが、春先の種牡馬リストに一切名前が載らず、競馬ファンからは行方不明になったようにしか見えなかったため物議を醸しました。
後の報道によると、やはり種牡馬としての評価は決して高いものではなかったとのことで、オーナーは「無理に種牡馬にするくらいなら」と乗馬にすることも検討しながら、北海道での放牧を続けていたそうです。
しかし、「もう一花咲かせてやりたい」という馬主の強い想いから、治療を経て地方の荒尾競馬で現役復帰をします。
中央競馬のGⅠ馬が地方で復帰するのは極めて異例のことでしたが、南関東の重賞レースでは結果を残せず、2005年6月に二度目の引退となりました。
引退後のダンツフレーム

競走馬にとって、引退後は第二の馬生(ばせい)の始まりです。
同期たちが種牡馬として成功を収める中、ダンツフレームは異なる道を歩むことになりました。
度重なる苦戦から種牡馬としてのオファーはなく、彼は栃木県にある地方競馬教養センターで、未来の騎手や厩務員を育てるための乗馬となることが決まります。
穏やかな性格だったダンツフレームにとって、それは天職になったかもしれません。
しかし、その穏やかな日々は長くは続きませんでした。
最後のレースとなった川崎記念の頃から体調に異変をきたしており、教養センターに来たときには既に体調が悪化していました。
精密検査の結果、回復が困難なほどの重度の肺炎を患っていることが判明します。
スタッフによる懸命の看病もむなしく、ダンツフレームは回復することはありませんでした。
そして引退からわずか2ヶ月後の2005年8月28日、ダンツフレームは静かにこの世を去りました。 7歳というあまりに早すぎる最期です。
現在、その亡骸は教養センター内に建てられた墓標のもとで安らかに眠っています。
決して主役ではなかったかもしれません。
しかし、最強世代と呼ばれたライバルたちに食らいつき、一度はグランプリの頂点に立ち、そして最後まで走り抜こうとした不屈の名馬、ダンツフレーム。
2024年6月26日発売のアルバム『WINNING LIVE 19』に収録されている彼女のキャラソンタイトル、『私が主役じゃダメですか?』という問いかけに、我らトレーナーがゲームで彼女を主役にさせてあげましょう。
